かみさまは、私の中にある
アメリカ人の妹はクリスチャンです
無宗教な家に育って、アメリカで生活して、今の旦那様とお付き合いをするにあたって
クリスチャンじゃないと結婚は考えられないと言われてクリスチャンになった
(というような展開だったと思う)
あの国で、クリスチャンじゃない人が生きていくのは大変なのかもしれない
何か集会やパーティー(という名の集まり)に出席すると、まずはお祈りから・・というような世界
(私の体験でしかないので、個人的な思い込みかもしれません)
結局、大学在学中のできちゃった婚の妹にとって、クリスチャンになったのは良かったのだと思う
教会の集団の中で生活して、子育てして、生きていく
人はどこかに所属することで生きていくことができる
妹の所属する教会は、妹の生活を支えていくうえでとても大切なものなんだと思う
ただ・・・
私はとても寂しい
家族だった妹を、神さまという名の何かに取られてしまったような、そんな気持ち
そもそも、私は唯一神を信じていない
私の中にあるのは、八百万の神さまであり、この世界の全てが何かに通じているという感覚だけ
そして、それは私の中で確固とした確信として存在している
だからといって、キリスト教を否定するわけでも、唯一神を信仰している人々が違うと思っているわけでは決してなく・・
それは、それぞれ個人の宗教だから
祈る人、祈りの場、そこにある想いや信仰は大切なものとして、尊重したいとも思っています
その場、その場の神さまに、お祈りもするし、感謝もしています
祈りを強制されない限り。という但し書き付きではありますが・・・
今回、クリスチャンとして神の愛を説く妹を見ながら違和感を覚えて・・・
私の中の違和感をブロック解除していたら、出てきた記憶がありました
甥や姪が小さなとき・・なので10年以上前の出来事
子どもを鞭で叩いたり、痛みや罰を与えることを躾としている妹に
「それは虐待だと思うし、私には耐えられない」と言ったとき
「子どもは神様からの預かりもの、きちんと躾けるために必要なことだから、これは神様が許したことだから」
という妹の言葉に、私は子どもに痛みを与える神さまを信じることはできないし、許すこともできない・・と思ったこと
全てのクリスチャンがそうだとも、キリスト教の教義がそうなっているとも、思っていません
ただ、私には その感覚が理解できなかっただけ・・・
その理解できない感覚が、今また戻ってきた感じ
妹は神の愛に生きている、許されていると感じることが必要なんだと思う
ただ、それは私とは違う
私は、私の中にある神さまに正直に生きていきたい
外の世界の万能の何かが私を認めてくれているから・・・そんな理由付けなんかいらない
私の中にある神さまは、時にはとても苦しいものかもしれないけれど
万能には程遠いのかもしれないけれど
それでも、そこにあるのは確固とした私のものだから・・・
ここまで思って、最初に書いた寂しさに気が付いた
そうか、私は、私の妹を神さまに取られたような気がしていたのか・・・
そもそも私のものですらない妹を、取る、取られる・・というのも変な気がする(笑
自分自身を許すことでしか、癒されない
神さまの言葉を語る妹は、借り物の言葉を話しているようにも聞こえる
もしかしたら、私のやっかみかもしれないけれど(笑
何か巨大なチカラに頼らないと生きていけないことは、もしかしたらとても寂しいことなのかもしれない
それでも自分しかいない世界では、生きていけない
人はみんな、寂しいんだ…
寂しい中で生きていくために、私ができること
ブロック解除をつたえることも、そのひとつなのかもしれない